・は・じ・め・に・

 

 

      ジミー・ヘンドリックスのパープル・ヘイズが僕の人生を変えた。衝撃だった。1967年の5月、夕方6時15分頃でラジオ関西の「電話リクエスト」で初めて聞いた。撲は中学二年生の13歳だった。最初のイントロの部分の5フレーズ目でトランス・フィクスしてしまった。新鮮な春だった。 

 

 

ビートルズ

 

      話しは少しさかのぼって、1964年、兄はビートルズのレコードを聞いていた。テレビのニュースでビートルズの事が盛んに取り上げられビートルズの映画の画面の前とかコンサート会場でどうして女の子が叫ぶのかわからなかった。チャック・ベリーのカヴァー・ソングのロール・オーバー・ベートーベンが流行りだした頃、兄は「ベートーベンをぶっ飛ばせ」という曲がクラシック界から顰蹙を買ったとか、どうのこうので、僕はビートルズの事を、「偉大な作曲家を侮辱した、大した根性の奴らだな」と思った。

ベンチャーズもまだまだ人気があって、兄は高校生のバンドでパイプラインとダイアモンド・ヘッドを弾いていた。

 

 

ベンチャーズ

 

      生まれて初めての撲のバンドのデビューは1966年の三月、小学校の六年のお別れ会の時で、僕の空気バンドが登場する、バンドリーダーは撲で、長谷川、長尾、と加古がいたと思う。撲達はボール紙をモズライトのエレキギターの形に切り取り、色は赤い絵の具を塗る。ネックは1cmx3cmの角材を使用し、ボール紙のボディを糊で貼り付ける。糸巻のヘッド部分もまた固紙を切り抜いて角材に貼る。これで撲達のギターは出来上りだ。

 

 

     お別れ会は撲らがとりでスーテジの上で演奏することになっていた。

練習は2回だけでそれも加古の家で、学校の帰りにやった。リハーサルの内容はポータブルのレコード・プレイヤーで、ベンチャーズのレコードを聞き、エアー・ギターの練習であり、くちぱく、といえばわかりやすいのか、ベンチャーズだから歌無しの演技だけでベンチャーズに成り澄ますわけである。

 

      お別れ会は、御存じのように小学校6年の最後に全員が何かを披露するパーティで、演技、演説、手品、まんざい、歌とか、いろんな楽器演奏とかいろいろある。普通は一人一分から三分ぐらいまでは時間が取れる、撲らだけが団体演技であり、その分だけ長くなり、その上、本番の時になると、あと藤井、藤谷、渋谷、そしてドラムの川上が増えたので、その分も長くしなければならなくなった。ステージは教壇だから舞台にはみんな上がれなくなってしまった。僕達は後ろのドアから、

「僕達の出番は、もうすぐや、そろそろ後ろのドアから出て準備しょう。」と、撲達の出番の二つくらい手前の演技の最中で、廊下に出て、廊下の端にある水道場で全員頭に櫛をいれた。

      撲らがステージに出てきた時、みんな笑い転げた、いつもと違うのは髪の毛がみんなベットリと水に濡れて、水も滴る髪型でちゃんと櫛が通っている。髪型はいつもの毎日のスタイル全く違うもので、7/3で切れ目を入れているか、真ん中で分けていた奴か、前髪垂らしたバングした奴か、いろいろである。撲がレコードをセットアップして僕らのバンドはベンチャーズの曲を3曲やったから7分ちかく演技したことになる。 エアー・ギターの7分は長いので、観客に間を持たせなければならない、最後の曲になって藤井が頑張っくれて、藤井のソロになると藤井はチャック・ベリーようにアクロバット並に反り返って、それから跳ねまくった、藤井は小さくて可愛いから、また盛り上がって、みんな拍手した。 川上も頑張って、いくつものバケツに鍋の蓋でシンバル、本物のドラム・スティクで派手にキース・ムーンのようにロール・プレイをやってくれた。演奏の後、川上は将来アート・ブレイキーように成ると撲に言った。撲らはクラスでもぜんぜん勉強の出来ない子か、反抗少年か、ちょっと変わりモノか、チビか、臆病な子か、はみ出し者の集団のように思われていた。誰でもできることをみんな初めて真剣に人前でやったから、むちゃくちゃに観客に受けた。撲はうれしかった。でも藤井と藤本の仲間の佐野だけが一人観客側回っていた。演奏が終った後、彼も入りたかったのが分かった。でももう何もして上げられなかった。長谷川と長尾だけが3月生まれの11歳で、撲らは12歳だった。

 

 

ホビーズ

 

 

      中一の夏の頃に結成したバンドはホビーズと呼ばれていて、近所に住む秀才のテツちゃんが始めたバンドで、テツちゃんは中学一年の一学期の中間テストで一番になったプレゼントにパールのドラム・セットを両親から買って貰っていた。そのうえプレハブのワン・リビングを裏庭の一番奥に建てててもらい、彼はそこを彼一人のための勉強部屋と寝床そしてバンドのリハーサル場としていた。まだその頃、撲らは13歳で中学に入ったばかりだから髪の毛は無理やり刈られて丸坊主されてしまっていた。かっこいいと思う奴らはみんな長髪であり、それもビートルズカットが話題になった2年後の事だからあまりめちゃくちゃなロングヘヤーはまだ登場していなかったが、その後、12カ月でアメリカ、日本、ドイツ、イギリス及び東京、神戸、大坂、京都、横浜そして撲の住んでいた郊外の町にもリボルショナリーなニュー・エレクトロ・ウェイブの影響は急激に訪れた。

 

 

      1966年の日本はワイルドワンズ、ブルーコメッツというグループ・サウンドの全盛時代で、ブルコメなんかよりスパイダーズ、カーナ・ビーツなんかの方がずっとモッズ的で、クリーンカットとボタンダウンのコンサーバティブより、より・刺・激・的・なモッズの方が・い・き・な・り新鮮であった。 

      本当はそれよりそのあとで出てきたゴールデン・カップスやモップスの方がずっと好きで、ルイズルイス加部が撲の一番お気に入りであった。 すでに撲達のバンド、ホビーズはレパートリーをブル・コメの「青いシャトウー」から「ストーンズのジャンピング・ジャック・フラシュ」のカヴァーをやるようにまでなっていたが、完全に人前に披露するには、全員がもっと練習をしなければならなかった、僕はエレキを買って貰えなくて、また兄の鉄弦のクラッシック・ギターで、練習していたがどうもうまくならないというより、ボヨヨーンというあのクラシック特有の音では満足いかず、音を大きくするのにピックアップとかアンプが無いものだから、音を大きくするために、いきなり弦を引っ張ってフレットにあたる音の方がうるさく、ファンク・ベースのチャップ奏法に似ていて、バチーン、ボヨヨーンとスタンリー・クラークより前にチャップ奏法を発見してしまったくらいだ。コードを押えるのには、12歳の時から、C・D・Dm・E・Em・G・A・Amぐらいは引けたと思う。するとその頃は一本弦でのリードだけでメロディは引いていた、最初に書いた曲も覚えているけど、詞なんかも書き出してAマイナーの曲で

 

      赤い夕陽が海の向こうに沈む

      撲の恋も海の向こうに沈む

      撲があの娘に逢ったのも今日と同じ夕暮れだった、

      恋、消えた恋.........

 

ここまでしかはっきりと覚えていない、完全に出来あがらなかったのは事実で無理やり最後まで歌ってしまうと "曲と詞の間" が空いてしまう、どうもうまくいかなかったけど美しい曲だった。

 

 

女の娘

 

     

      撲から自分の事を俺と呼ぶようにに変わったのもこの頃で、非常に生意気に成ってきたのも、この頃で、女ができだしたのもこの頃よ、小学校の頃、ビートルズの影響で女の子に追いかけ回されて運動場のまん中で女の子6人くらいに押えつけられて、

「こんなかで誰が好き?」と尋問されられたことがあったがそれも2回きりで、それを再び待ち望んだが3度は繰り返されず、中学でも同じ様に・変・に・もてる現象が中学入学と同時に起り、本町のわりとバタクサイと言ったらいいのか、それともチョット、コケイジョンぽいH子が俺の事好きだと言ってきたが、俺はH子よりもH子の近所に住むYさんの方が好きで、俺が小学校6年の卒業式の際にYさんは白いブラウスを着ていたのだけど、まだブラジャーをやってなかったから発育したブレストが透け透けで、まさに俺は驚きまくった。あの時の経験は小学校2年の時に来たサーカスをのぞきに行って、間違ってドレシング・ルームを覗いてしまった。そこにはまぶしいばかりの美しいサーカス嬢がボトムレスで粗末なドレッシングルームで着替えをしてたのを見てしまった時の経験より胸をド・キ・メ・キ・させられてしまった、ともあれ、そのYさんの方が好きでH子をわりと冷たくあしらってしまった。H子は、俺の事を、「自惚れている」と女達の間でわるい噂を流してしまい、撲は嫌われものになってしまった。

 

      傷ついてしまった撲は、女の娘に対するあこがれより、女の娘みんな嫌いになってしまった。撲は先頭に立って、Boys Dislike Girls Organizationと言う、秘密結社をつくってしまい、クラスの男の子を全員、結社員にしてしまった。 その上IDカードまで発行して、結社員全員は忠実にもクラスの女の子と2週間も一言も話さなかった。最後にクラス会で、女の子側から問題定義され、秘密結社の事がばれて撲が挙げられてしまい、ますます孤独になってしまった。そのあと夏までの3カ月間は全く喋らなくなってしまった。

 

 

           

      ツイギーのミニが流行りだした頃でもあった。ミニの話しになるがひざ上5センチをやるのはかなり先を行っている娘で、2年になるとひざ上10センチで、いきなり学校に来るのがいた。 クラスの中で嫌われてしまった撲(また僕に戻る)は、6年の時の一番可愛いと思ったS子ちゃんの片思いに戻ってしまった。撲はもてないんだ、という自覚というよりあきらめていた。 一度学校で誰が一番きれいかと言う事で、ビュウティ・コンテストをした。そのコンテストで200人いる女の子の中で第三位になった女の娘がいた。その子はファショナブルなそのミニの女の子のグループにも属しており、俺達の間で、一番話題の女の娘の一人だった。そのK子が俺のことを好きだとか言う噂が入ってきた。マサかと思った。 彼女は美人というより才女で、おまけに運動ができて、ファショナブルな娘だった。はずかしながら、夢かと思いながらプロポーズを受けてしまい、簡単に一発で惚れてしまったのは後の祭じゃ。

 

      ウオーカー・ブラザーズが全盛のころ、スコットとゲーリーとジョン・ウオーカー、の三人組がK子のお気に入りのアイドル・バンドだった。K子が聞くのだったら撲も聞かなくては思いながらも、結局はあれは女の子の好みのバンドであって、まだ世の中が何にも分かっていない子供に少々毛の生えた撲には、とうてい理解できず、女心を理解するのは宇宙人と会話するのと同じくらいの心境であった。

 

      その頃の撲はベルボトム、ラッパズボンとか言う代物の兄のお古をはきだしていた。自分では、いきがっているというよりボーズ頭にラッパなんて、どいなかのファションの筆頭の様になってしまったが、それでも欧米では、すでにカーナービー・ストリートではトップファションになっていたのはずである? 

「しかし坊主頭にベルボトムはないぜ。女の子も制服にミニはないでー」、といいながら、K子は俺のサブコンシャスの反抗精神に惚れたのだということがわかってきた。撲は全くファションには、うとい方で、ジミヘンを聞くまでバンもケントも何にも興味がなかった。雑誌にしてもボーイズライフはちょっと大人めだしメンクラなんてちっともしらない、少年マガジン、少年サンデーそして中一時代だけの中学一年生、撲らより先をいっていた女の娘が「男と女」って事を撲に教えてくれたんだ。

 

 

マイルス・デイビス

 

      ジャズの世界に興味を持ちだしたのには2つの理由が合って、一つはうちの兄がマイルス・デイヴィスのLPのマイルス・イン・ザ・スカイを買って、中一の撲と高三の兄は年が離れすぎているのか、撲にはちっともマイルスがわかんない、というより何がよいのかどこが凄いのか、ちっとも分からない。兄のいうことを聞くと、

「次にでてくる音を想像してみろ、次の音は高い音で始まると思うと、必ず低い音で出てきて必ず期待を裏切るから」ということで聞いいてみると兄の言ったことが当たっている。「おもしろいもんだ」と言うことで撲は、中学の時のジャズはマイルス一本で過ごしたが、その後、地元の受験高に入ってみるともっと凄いのがいっぱい要るではないか、これはあとの話しにして、マイルスを聞いている奴は撲の学年には僕しかいなかった。

 

 

ジミー・ヘンドリックス・エクスペリエンス

     

      「フムヘイズ、オーリンマイブレイン、」どうしてもパープルがフムに聴こえてしょうがなかった。撲の頭を、でかいスレッジ・ハンマーで分殴ったジミヘンは次のシングルを提供してきた。The Burning of the Midnight Lamp/The Stars That Play With Laughing Sam's Dice ここまで来るとまた次のステップが撲に必要であって、「この音楽は地球の音楽ではなくて、きっと神様が与えてくれた音楽ではないか」と思った瞬間、ジミヘンは、

「撲にとって天才とは何か」というリコグニションを植え付けてしまった。それまで人がいう天才とはピカソでありベートベンであったが、これは人が撲におしつけ教育でそういう風に教えただけで、どこが天才かは知りたくもないし、ピカソの絵なんてガキでも描けるし「、ジャ・ジャ・ジャ・ジャーン」なんて、僕に関係ない話しであった。そこに来ると裏面のラフィング・サムズ・ダイスのワウワウ・ペダルの効果は悪魔の仕業であり、神様と悪魔が一緒になって撲に " Wow Wow Welcome to the Jimi Hendrix's  Wow World Wow Wow Wow Welcome to the Wow Jimi Hendrix's Wow Wow Wild World." と言っているように聴こえ、?はジミヘンのパープル・ヘイズの歌詞を丸暗記してしまい、声までジミヘンの声に変えるように、毎日何十回も練習してしまい、物真似もここまで凝ってくると、次はギターをレフト・ハンディッド用に変え、服はジミヘンのコピーのサイケディリックな衣装を着るようになる。しかし頭がどうも坊主だと・き・ま・ら・ないので、少し頭の毛が伸びた所で頭の毛を平手で、けっこう長い間摩擦して、ぐりぐりすると、天然パーマのようにアフロ・アメリカンのようになる。これでブルースを歌えばというより、声をジミヘンに真似た声で歌えばもっとさまになる。

 

     

            その僕はますますジミヘンに取り付かれていって、同時にLPの買えなかった撲はどこかで Are you experienced? を捜さなければならなかった。一枚2000円もするLPは一年に何枚しか買えない状況で、ゴールデン・カップスのLPを買ってしまた後で、その上モップスとダイナマイツに熱を上げている間にジミヘンのLPの発売が遅れ、ジミヘンに使うお金は亡くなってしまった。撲より生年月日が2カ月若いが同学年で、カブスカウトの時、いっしょだった変なあだ名のK君がジミヘンの Are You Experienced? を持っているという情報が入って来た。

「これは俺より先を行っているんじゃないか」という気持ちと、

「友達になろ」というその結果、僕はある土曜日の午後、彼の家に行ったのである。K君の家は町の角にある家で、彼の部屋は2階にあり、部屋は真っ黒に塗られ、ロフトベッドがありブラックライトが、輝いており、サイケデリックなポスターが貼られてあり、ブラックライトが怪しくミュージカル・ヘヤーのようなポスターを浮かび上がらせていた。その上、女のマネキンがありサイケなペイントが塗られた半裸のマネキンの胸にはナイフがつき刺さっており、赤い血がベットリと塗られていた。多分まだ3時にはなってなかったと思う。外の明りはその部屋には入って来なかった。

 

 

      レコード鑑賞の話しになるが、ジミヘンのまだ聞いたことのない Hey Joeが始まる頃になって、撲の恍惚状況は ・よ・り・無・限・に・宇・宙・に・飛・び・立・っ・て・ The Wind Cries Mary で、やっとグルーヴィーな雰囲気に戻り、Fire はアーサー・ブラウンの方がヘビーだったが、ジミヘンのファイヤーの方がいとも簡単に軽く素晴らしい快さを与えてくれて、最後の方でFoxy Lady になってやっとこのジミヘンの音楽ツワーが終りに近付きかけた。K君は撲にレコードを貸してくれる事を約束してくれ、僕はほくほく顔で、家に帰った。

 

 

デ・アウフヘーベン

 

      チャンスは訪れた。中学2年のクリスマス・ボール(クリスマス・パーティ)で、演奏を町内の公民館でやることになってしまった。去年と同じ場所で、中学一年のクリスマス・パーティはホビーズのデビュー・コンサートで、ボーカルが3人もいて撲はサイド・ボーカルと言ってリードシンガーの隣でタンバリンを叩くといったモノだが、今回はデ、アウフヘーベンというジャーマン哲学的な名前の3人編成のバチバチのジミヘンのコピー・バンドは、コンセプトまで3人集まればより高い所にいけるという発想から産まれたジミヘンと全く同じコンセプトで、撲の不思議なカスタム・メイドのロケット型ベースはルイズルイス加部のベースのコピーで、そしてたった一曲4分のセットであったが、一緒に出演していた先輩達、仲間をを一気に地獄に落してしまった。

 

      その前の年のクリスマス・パーティの話しになるが撲達にはちゃんとグルーピーがいて、前の座席に10人以上も陣取っていた。いやはやロック・ミュージシャンの醍醐味はこの時、は味わってしまったのは全くの喜劇で、あと20年間はそんな生活が続いたのである。

 

 

 

      の買ったベースは中尾のポーン・ショップで買ったもので5千5百円のギブソン・サンダーバード?のコピーで、このギターを全て分解してのこぎりでギブソン・フライング・ヴイーとはいかないが、ルイズルイス加部のエルク社製のロケット型に非常に近付けたものだけど、ボディはやたら小さく、弓矢の矢のようなアロー型のベースになってしまった。ペイントは非常にシンプルにクリムゾン・レッドでピックアップ・ガードは白いプラスティック。ギターに物知りの人が見ると、呆気にとられる物であったにちがいない。

      肝心の音は平凡な音で、トーンをギリギリにあげても、あのソウルフルな暖かいフェンダーのプリシジョンの音からは程遠い物で、その分はルックスで、カバーした。もともとこのベースは左利きに変えてデサインしたのでピックアップは上下にある。その分最初は弦も左利き用に張り替えて、何時間も練習していたのだけれど、このベースは両親の住んでいる自宅には、持って帰ることがなかった。エレキは禁止されていたのだ。 右手と左手のコンビネーションもかなり旨くなってきたが、練習が足りない理由で結局2カ月後にはライト・ハンデッドに戻してしまった。

 

 

     

      アウフヘーベンのコンセプトはNation to nation or Race to Race のバンドをジミヘン以上に意識したバンドで、G君は色が黒いし、日本人離れした顔をしている。反対にY君は色が白くて鼻が高すぎるから、また日本人離れした顔をしている。3人集まると変なグループに、変な音楽、ファズ・トーンとワウワウ・ペダル、そしてサイレンとかなるもの、そして撲は最後に必殺の三味線のバチを使って練習をしだしたが、それはうまくいかず、結局もとのピックに戻ってしまった。毎日2時間半に及ぶ練習は土日以外、毎日続けられ、中学3年の最後の学期は充実しきって終った。

 

 

アンタイ・エスタブリシュメント

 

      1969年公立の高校に入ったがジミヘンはもっと自由に、もっと自由を撲に与えてくれた。あまりの自由に撲はできるだけ高く飛ぶことを考えた、それもできるだけ長い間、自由に・・・・・・

もちろんそんなに長く自由になるわけはない。由緒ある高校であり、教育設備ももちろん調っていて、素晴らしいクラブ活動もある受験校に入学してしまったからである。はもちろん7月に入ってからは本当の自由になり、髪の毛もかなり伸びて完全なアフロにして、シルバー・アヴィエイター・タイプのサングラスをかけていた。身長も今と同じでかなり痩せていたからそれにヒールの高い靴を履いていたもんだから、有に190cmくらいにはなる。

Are you experienced? のLPの持主のK君は撲と別の高校に行ってしまったが、高校に入ってもまだ彼からいろんな物を借りていた。ビートルズのホワイトアルバムやらアビーロード、その上に着るものから、コントラベース、ブラックライトやらいろいろ借りまくった。そのお返しにどういうきっかけか、撲は彼の写真のモデルにならなくてはいけなくなってしまった。

「ヌードを撮ろう!」

「誰のや!?」

「君のや!」

「え、どういう意味や?」

「ぜったい、ええのが撮れる、そのアフロでヌードのコンビ、ぜったい芸術的なのが撮れるよ」

撲は一瞬、いろんなロックミュージシャンとか有名な人が裸になっていたのを思い出し撲もその中の一人になるのかしらと密かに「くくくく」と喜んだ。

「そやけど、ほんまに全部ぬぐんかいな?」

「まー上だけから始めよ。」

「それやったら問題ないわ」とか言ってジーンズだけになったのがいけなかった。だんだん平気になってきて最後は素っ裸で、ちんぽこだけ見せずに撮ってもらった。ちんぽこはまだ見せるのにはまだ勇気がいった。

「まだ子供の線が残っているけど、きれいに撮れていると思うよ。」となどと言うものだから「自分も子供のくせに、なにをませた事をぬかしやがるんだ。」と思った。

 

 

      あがった写真は「まーまー」のできで、K君が暗室で自分で焼き付けたようだが、アンダーぎみで暗すぎたけど、いい思い出になるので「記念に」と思って撲の机の引出しの奥にしまっていたら、一ヶ月も経たないある日、母親が、

「あの変な写真は何ですか」

撲は、

「ぎくっ」として、沈黙をたもっていた。    

「誰に撮ってもらったの、いやらしい」

僕は「どうして勝手に人の机を開けて、勝手に見るんや」と思ったけども何も言わずに黙っていた。

「あんな変な写真はみんな捨てましたよ。」

撲はますます母親に対して尊敬の気持ちが薄くなってしまった。

 

 

      撲のファションは完全にピッピーになり、ブルーズを弾きだしたのもこの頃で、撲の一番の好みはシカゴ・ブルーズ、でも聞く方だけど自分で演奏するので得意なのはパープル・ヘイズ、サンシャイン・オブ・ユア・ラヴなどのブリティシュ・ロックで、ザ・フーなんかの曲が新しいレパートリーに加わった。

 

      またジャズの話しに戻るが、高校に入るといろいろなのがいて、クラスの最初の自己紹介で、

「自称ジャズ・キチの森です。」と言う奴がいて、知識としてものすごい量のインフォメーションを持っている上にレコードをいっぱい持っている。完全に降参した僕は、ジャズはインテリでないと聞けないんだという事で、学問という雰囲気でつき合うことにした。その結果、ジャズ喫茶なるものが一番この学問を収得するのに、良い場所と言うことに決めた。

 

      六月が始まりなにかこのままではいけないと云うことで家出をする計画した。時間をかけてじっくりと間違いなくやらねばならない。その為に次ぎなるプランを作成した。

「持って行くものは、ミニマムに、より効能的に動き安いようにする。」 

「皿洗いと、ウエイターはやる気は無い。」

「資金は親の金をちょろまかす。」

「着る服とか、持っていくものは秘密の屋根裏に隠しておく。」

「時刻表で、電車のスケジュールをびったし調べておく。」

「朝の始発で、京都に行く。」

「でる日は平日にかぎる。」

「家出はただ親とかにショックを与えるだけにするか。本当にアジトにもぐり込み兵隊になるかを考える。」

「でも出来れば女のひもがいちばんいい。」

「しかし出来るだけ長くどこかに心地よく、潜入しなければならない。」と言うことになった。

 

親から見る撲の症状は、こういう風になる。

受験勉強がだんだん苦痛になってきている。成績も一気に高校に入った頃に比べると急降下で落ちて行っている。口答えもかなりひどくなってきている。親からの文句も多くなる。誰が見ても大人に見える風貌もしている。タバコもかなり吸っている。アルコールも飲んでいるのがわかる。くずかごがクリネックスでいっぱいになっておりマスターベーションも頻繁にやっているのがわかる 。

 

      どうしても必要になったのは一人で住んでいる女の人の家に転がり込むにはまずそういう人を見つけねばならない。そのために、女の口説きかたも同級生の友人と一緒に研究しなければならなかった。

      女の娘の引っかけ方の練習には、三ノ宮のディスコ・ティック、メイドインニッポンによく行っていたが、撲は人がいいというのか恥知らずというのか一緒に来る奴の先頭をきって、よく女の娘をナンパした。それはどういうタイプの女の娘かというと、例えばマニキュアを真っ赤にに塗って、真っ赤な口紅をつけた、ボブカットのピンクのカーディガンを羽織り、プリーツのはいった長いスカートを履き、ペニー・ローファーを履いている、不良っぽいステレオ・タイプのティーンエージャーの女の娘でヤンキーの崩れ、僕は高校の仲間を引っかけた女の子に直ぐ紹介するくせがあり、何人かの友人はそれで童貞をなくしてしまった。しかし高校一年生で一人住まいの美人のインディビジュアルを見つけるのはとうてい不可能???。ちょろまかす親の現金のありかもどこにあるかが分かった。どうしても家出をしないとこのままでは撲がノイローゼになってしまう。撲の置かれた状況はかなり悪くなってきた。という事で即、家出を決行することにした。資金はその前の晩にちょろまかした、全部とるとばれてしまうので、三万五千円だけにした。普通に安ホテルでも泊まって行けば当時三千円から七千円ぐらいだから、三泊から五泊しか出来ない。すぐに仕事を見つけられるか、あるいは直ぐに撲を泊めてくれる一人住まいの女が見つかるだろうか?

 

      朝4時30分に家を出た。家の誰もが気がつかなかった。一回りの生活用具と一週間分の着替えを持ってサトウ・ブラザーズで買った米軍の払い下げのバッグに入れて、駅まで歩いた。誰にも会わなかった。切符を京都まで買い、始発の大垣行きの上りに乗った。

何日間か放浪をした。ジャズ喫茶にも行ってかなり時間をついやした。毎晩たばこの吸い過ぎとコーヒーの飲みすぎで夜はなかなか寝つけなかった。仕事も見つけることは出来なかった。なんのスキルも無いわけだからフーテンに成るのは別にしてフーテンのブームも2年すぎた後、今時家出人の集まる場所もなくなってしまっていた。お金も無くなってきた。覚悟を決めて家に舞い戻る決意をした。夜遅くの電車で両親の自宅に着いた。いつもなら鍵がかかっているはずなのに鍵はかかっていなかった。恐る恐る中に入ってみるとまだ、電気もつけっ放しで、家の中に入って行くとまだ両親は起きていた。撲は一言も話さないで、台所まで行った。母親が泣いていた。

 

      それ以後撲のおふくろは撲になんにも言わなくなった。でも僕は精神不安定で躁鬱症的になり、母親は撲を公立の市民病院の精神科に連れていった。市民病院の精神科医は

「いや、直ぐに入院させた方がよろしいですな。」

「・・・いえ、そんな!」と母親あわてさせ、遂に神戸大学医学部のバイオロジストで、ユニバーシティ・オブ・カリフォニア・バークレーのメディカルスクールで教鞭をとったこともある叔父に診て貰わなくてはならなくなった。叔父は神戸大学のキャンパスに撲を連れて行き、叔父のOBラグビー・プレイを見せてくれた。そのあと今でもまだある三ノ宮のビアホールに連れて行ってくれて昼まっから大ジョキー二杯に、フライドチキンを食べさしてくれた。旨かった。

叔父は母親に、

「全く、別に異常は無い」と彼の診断を報告した。

それ以後は、たばこも自由にいつでも吸えるようになったし、家で友達を集めてドランケン・パーティもよくやるようになった。

 

 

     

      大坂城公園のアンタイ・エクスポのロックコンサートの事がわかり、僕と大西君と馬場君がウイークエンドに2泊3日の徹夜のコンサートに行く計画を立てた。馬場君はバイオリンを3歳からやっていてNHKの教育テレビにもソロ・バイオリニストとして出演したことのあるオールマイティな優れたミュージシャンで、ブルース・ピアノもオーティス・スパンの真似がうまく、エリック・クランプトン、ピート・タウンゼントその他多くのブリティシュ・ロック・ミュージシャンのリードの完全なコピーができる数少ない存在であって、その頃既に時代遅れではあったが、白い本物のモズライトを持っていた。大西君もジンジャー・ベイカーのファンであり。大西君の腕はパワーを感じさせるもので、僕達三人は新しいバンドを入学と同時に結成しており、腕前はまた公民館で開かれたロック・コンサートに参加し、新しいバンドとして迫力あるデビューを華々しくしていた。こうして1969年の高校一年の夏は始まったのである。

 

     

      環状線の森ノ宮には3時頃着いた。駅から下りるとそこは既に同じ目標を目指すヒッピーで溢れていた。大阪城のもりの中を歩いて行くと静かながらも道行く人々もなにか、清々しさを感じさせ、地面を静に這うベースドラムの音が次第に大きくなり、サウンド・チェックの様子がわかるようになってきた。ニューヨークのセントラル・パークのシープス・ヘッド・ミドウじゃないけど、かなり広がった場所がでてきた。コンサート・グラウンドはベース・ボール・フィールドを思いわせるサイズで、東京からきたバンドがサウンド・チェックをやっていた、ギターリストはブルーズのリフを泣かせていたが、まだPAのセット・アップが終っていなく、サウンド・エンジニアー兼プロモーターのフータという人がかなり鋭くチェックしていた。その時会ったのが砂川で開かれた反ヴェトナム戦争のコンサートから来た、のちのロック・グループのウオッカ・コリンズのヒカルで、もう一人のトシコは大坂のたぶん大学生で、コンサートのプロモーターの一人でやさしい人だった。

 

      1969年のジミー・ヘンドリックスのヘヤー・スタイルはアフロに一時期なっていた。 ?のヘヤースタイルもジミーと全く同じで、服装はK君からの借り物の白のタイトでロングなコットン・ニット・スエターでベルスリーブ、ベルボトムのブルージーンズ、かなりヒールの高い黒いアンクルブーツ、もちろんいつものサングラスに自分で作った長い長いビーズを首に三十にも垂らして、?のスーパー・エイトのカメラをやはり自分のデザインで色まで自分で選んで染めたフリンジのライト・ブルーのケースを肩から掛けていた。デザイン的にはカメラバッグに見えない所がみそであり、スーパー・エイトは携帯用だがコンサートを撮影するには最高の秘機であり、フジのASA 80のデイ・ライト・フィルムを使用した。 露出はワンストップ・オーヴァーであったが、わりとうまく写っていた。これが次のきっかけになるとは夢にも思ってなかった。

実験映画を作り出したのである。

 

      その夜は生まれて初めて大麻を吸った。森の中の薮の中でも至るところでフリーラブは行なわれていた。大西君と馬場君を全く無視して一人でせっせと不純異性交友に励んだ。トシコのほかに、銀のロングドレスを着た金髪に染めた不良っぽい女の子ともフリー・ラヴのイミテイションをした。ピース!ピース!とピースマークがトレードマークで、みんなヴイ・サインをするとそれが合言葉のように撲のExperienceはいとも簡単に始まった。

 

      次の日が再び始まった、撲は初めての野宿をしてしまった。

撲の白のニットのスエターは、だんだん汚れて、いかにもフーテンのようになってきた。アフロも寝てしまうと後ろがぺちゃんこになって変形アフロになってみっともない。コンサート会場のそばに誰か住|